J 「神に向かって心を開く。合楽での助かりと他宗教との違い。」

昭和五十七年三月七日 朝の御理解

x御理解 第五十節 「とかく信心は地を肥やせ。常生からの信心が肝要じゃ。地が肥          えておれば、肥をせんでもひとりでに物ができるようなものぞ どんな土地でも肥料さえ施せば、良い物が育つかというと決してそうではない。


 土地にもやはりよい土地と、まあ不毛の地というのがありますよね。いくら例えば肥料を施してもその不毛の土地といわれるようなとこには、生えない、おえない、育たないですから勿論、心を肥やすという事でしょうが、だから、先ずはその心が第一だ。心を整える事が大事だとうい事がわかりますね。
 心一つで全てを創ると言われるのも私、そういう事だと思うんです。そこからだんだんあの人は、仏様のような人神様のような人じゃと言うてもですね。信心しておかげ受けるのは別とおっしゃられる信心によって、そこからその心がいよいよ豊かに大きくなっていく。そこに豊かな大きなおかげが約束されるのです。
 四神様の、二代金光様の、ね、御教えの中に「憎い可愛い、惜しい欲しいを取れば楽じゃ」とおっしゃられる、ね。
 憎い可愛い、惜しい欲しい、私共の心の中にそういう心がいっぱいあったんでは、どんなに肥料を施しても、ね、なかなか、ひとりでに物が出来るような心の状態にはならん。先ず、いうならば、改まれとこう言われますが、まあ、私共の心の中にまあこんなにそれこそ、浅ましい心、この前の梅の実会の時に、高芝さんところの娘さんが久留米に嫁行っとりますよねえ、隈井淑子さんと言いますが発表しておりましたが先だってその、子供がね、ある事でお母さん、あんたの心には鬼が住んでるよ、ち、言うたち。もう、言われてみてから、確かに自分の心の中には鬼が住んでおる事を感じさせて頂いたら、今迄その、鬼のような心で言うたり行うたりしてきた事が、も、本当に相すまんと気がついたという発表をしましたよ、ね。
 おかげの受けられない心が、ね、心の中に住みついておる。で、それをまあ、いうならば、どういう事でしょうか。憎い可愛い、惜しい欲しいというような心じゃないでしょうかね。だから、信心させて頂いてですね、これは合楽でおかげ頂くという事はどうでも本気で御理解を頂かせてもろうて本気で、いうならもう、心で頂かしてもらうという事、ね。そして信心は悟りなりと言われるように、ねえ、そんなら自分の心の中に憎いとか、可愛いとか、惜しいとか、ね、欲しいとかといったようなものを取り除こうとしてもなかなかもって取り除かれない。
 今朝から私は、お知らせに頂きました事ですけども、もう、本当にそうだなあと、まあ実感させて頂いた事ですけれど、ねz『心を開けば、ね、憎い可愛い惜しい欲しいがなくなるぞ』と頂いたです。心を開けばね。
 私、も、これを頂いてから確かにそうだと思うです。だから、皆さんがお話を頂いただけではなくて、なるほど、そうだというだけでなくて、もう心の底からお話を頂いて心を開かなければ駄目。いうなら、それをまあ、宗教言葉で言うと悟りとういう事にもなるでしょうか、ね。心が開けるという事は悟りが開けるという事、ね。心を開く、ね。心を開けばです。おかげの受けられない元といったようなものがです、ね それこそ淑子さんじゃないけれども、自分の心の中に鬼が住んどったと言うて、言われて気がついただけで、なかなか取り除けるものじゃないけども、そこから信心の悟りが開けて来てはじめて、ね、いつの間にかその、憎い可愛い、惜しい欲しいという心が影をひそめてくる。いうならば、おかげの頂きよい心の状態が開けてくる。そのおかげの頂けれるその、心の状態をいよいよもって肥やしていかないけない。
 豊かに、大きうしていかなきゃいけない。いわゆる天の心であり、地の心でありという頂き方をする時に、いよいよ心は広くなっていくでしょうし、いよいよ心は豊かになってくるわけですね。
 いうならば、土の信心で黙って治める生き方ならば、もう、素晴らしい肥料となって、心はいやが上にも豊かに肥えてくる。なるほど心一つで全てを創るという事はそういう事だと思う。地を肥やせと言われるからというて、只、なら、合楽理念でいう土の心又は、天の心と言うてもです、その心そのものの中におかげの受けられない心に,いくら肥やしてもそれは不毛の地に肥料を施すようなものですから、本当なおかげになってこないという事。
 私は今朝からこのお知らせを頂いてから、も、とにかくですね、結局信心が【 】からなされなきゃいけないて、おかげが欲しい欲しいというのではなくてね。
 ずう体から自分の心に頂かせてもらう教えを有り難うと受ける心にならなければ、いわゆる本然としたものになってこない。
 先だってあれは何かの会合の時に坂根先生が司会をしてました時に、ま、申しておりましたように、合楽理念以外の宗教と思わないといったような表現、言うておりましたが、も、確かにね、私もそう思うです。でなからなければね、本当の心は開けない。信心は悟りなりと言われてもです、その悟りようがです本当な、いうならば、ひとりでに物が出来るようなおかげ、働きになってこないです。
 昨日は、ま、いろいろ変わったお取次をさして頂いたんですけれどもね、今、日田から国師さんのお導きで毎日参って見える。御祈念のあと時間位に参って見えます方があります。佐藤さんと言うですかね。いわゆる、ある息子さんの問題で大変悩みを両親が悩まれてしておられるところに、あちらの方で身の上相談というのがある。
 聞かせて頂いたら、只、身の上相談を受けるだけではなくてやっぱ、私は宗教類似だと思うね。いわゆる、あなたんところの水子を助けなければ、子供にたたるとこう言われたと。そして、その相談を聞いて下さるとに十万のお金がかかった。惜しい事をしたなあ、その後に国師さんからお話を聞かれた、合楽の事を。
 そして合楽の話を御主人になさったら惜しい事をしたねえ-。十万円も合楽理念にお供えするがよかったじゃねえかというような事であった。私もそれを聞かせてもろうて、本当に惜しい事をしなさったですね、と、ね。
 そんな事で例えば、運命が変わるとか息子がよくなるとかね、それはもう本当にまあ、いうならば、それはまあ、インチキだと私は思う。それがインチキではなくて、なら、そういう事がなら本当であっても最近頂きますように、ね、ホタルの光のようなものだから、金光大神の光をもってすりゃもう、ないとと同じだといったような意味の事を頂くように私は先ずはインチキ宗教だと思いますね。そしたらですよ、先日又そこから言うてきた。あんたん方ん息子はとてもそん十万位じゃようならんと、だから、百十何回かの供養をせんならんから、まあ、沢山なお金の要求を言うてきた、ち。まったくインチキという事がわかりますね。
 ところが、ドッコイ!もう合楽におかげを頂いて合楽でおかげを頂こうという腹になっとりますから、それをまあ、いうならば、もうそういう事をお願いしてもらわんでんよかち、言うてから、ま、断られた。そしたら向こうが腹かいてきてから、十万円返してきたち。ほりゃおかげ頂いたねえち言うた事でした。昨日ですそれは、ね。 そういうふうにして、脅迫のようにすると今度は人間が弱いもんですから、はあ、こりゃ前払うた十万円ば返さしゃるふうじゃけん、ほんなもんじゃろうていうて、又そん次の言われる何十万という金を今度は百何日間の祈祷料を払う事になるような、私は仕組みになってるのだろうと思うのです、ね。もう、それこそもう、いうなら水子のたたりを思い知れと言わんばかりにその返してきたと。ところがドッコイこちらが合楽におかげ頂いとるから、それこそおかげ頂いたである。
 私もそう思った、本当にこりゃ神様の働き、合楽に一心に心を向けるようになってからそういう働きがおこってきたんだと思いましたね。これは熱心に創価学会の信心をしてられた方が、合楽におかげ頂いた。で、もういよいよ合楽に熱心に信心をされます。ですから今迄拝んどったこうお礼んごたるもんやらこう、掛け軸のようなと、南無妙法連華経、私は開けちもみらんやったけど、巻物が二巻こう入っとる。してそれをここへもって見えました。もう金光様一本にならしてもらうから、これはここでどうにかして頂きたいという事であった。あ、いいですよと。ここでは創価学会だけじゃない、いろんな宗教宗派の方が合楽に帰依してしたらもう皆そうなさいますからね。そんな御心配はいらんです、ちやんとそれこそ、これをお粗末にするのじゃない天地に奉還する、天地に返ってもらう、おキツネさんでもね,いうならお稲荷さんなんかのおキツネさんのごたっとば持って来なさった方もあります。だからそれも全部天地の大徳の中に返ってもらう。ですからというてまあ、もう先月でした。
 したら昨日、参って見えてから、もう昨日は大変な事でしたと私を導いた方がやって来てから、合楽にその、そげなつば持って行ってからもう、創価学会では仏罰という事ををいのですね、ね。仏罰を受けなん、罰を受けんならん、ね。
 それがね、あんただけならよかち、けども導いた私まで仏罰を受んならどうしてくるっのち、いうちからどなり込んできたち。ほう、私、そこにそん、仏罰の事は聞いとったばんてん導いた人がまでも仏罰を受んるちいうこつは昨日はじめち聞いた。
 こりゃ恐ろしい宗教だなあち思うた。そん、どうしてくれるかち、ね。
 まあ、合楽の金光様にお願いしょうというふうに、で、どんなふうにいうて、そのまあ言うてきなさったから言うたならよかろうかと言うて、まあ、昨日はお届けでございましたがです。いろんな宗教があるもんですねえ。いうならば、罪の為に、ね、罪に落ち込んでしまうという生き方やら、その、間違うたら罰をあてなさる仏様やら神様やら間違うただけじゃない。より本当な事になっていく事でも、その類系までも仏罰を受けなきゃならんといったような、まるっきりまあ、脅迫的な宗教ですよね。 人間の弱さにつけこんだ宗教ですね、ね。合楽の場合は私は皆さんに申しますのはね、もうとにかく、心一つでという事です。おかげ受ける受けないは一生懸命参ったから拝んだからじゃないとね。そして心一つで参らずにはおれん、拝まずにはおられん御用もさしてもらわにゃおれないというようなものが生まれてきて、今日の御理解じゃないけども、確かに皆さん心を開いたらね、惜しい欲しいがなくなるです、これは私は長年の体験から、素晴らしい表現だなあと今日思うて聞いたんです。
 私自身が心が開けるにしたがって、私の心はいうならば、先日の御理解じゃないけれどもね、円満具足、だんだん心の中が足ろうものが生まれてきたんです。いうならば、憎い可愛い、惜しい欲しいというようなものが、も、本当に自分ながらこういう状態がいよいよ円満具足の心であろうと思われるような心の状態になってきたのは、その都度その都度に本当な事を頂いては心が開けてくる。
 開けて来るたんびにそれがなくなっておる事に驚きました。なら、ここの久保山さんじゃないけれども、ね、黙って治めると合楽理念に基づいていきよればいつの間にか我情が取れて我欲が取れてとおっしゃるのと同じような意味だと思うですね。
 これは本然として成り行きを尊ぶかという事がどんなに大変な事かという事に心を置かれてその事に徹していかれるから、心が開けてからの事であるから、やっぱ心がいうなら、おかげの受けられる心の状態が生まれるわけ、そして我情であった我欲であったと思う心がなくなってくる。惜しいも欲しいもなくなってくる、ね。
 だからどうでも、皆さんがお話を聞いて下さってわかったでなくて、本然として悟れれる為には、いわゆる心から打ち込んでのいうならば・・・・・それこそ日参教聴といわれるその教聴です、教えを頂くという事です、ね。聞いておってくわしゅうなったでは駄目です。心が本然と開けなきゃ度胸も生まれません。
 そりゃ合楽で頂いて合楽の信心が、いよいよ、ま、いうならば、合楽以外の信心は信心と思わんというものが本然としてまいりましたらです、ね。今迄出来なかった事が、いうならば、完全と出来る、ね。改式なんかもそうです。わかったら本気で改式がすぱあッとでける、ね。昨日の石田さんの手紙じゃないですけども、それこそ今迄の、いうなら、そうした縁をこちらからすっきりと、ね。以外のものをすっきりと切っていく事がでけていよいよ合楽一新、合楽一本という事になってくる。いよいよ心がねいうならば、豊かに大きくというかね。今日私はひとりでに物が出来るとい、只為にはとにかく信心は地を肥やせと言われるその地を肥やすというその地そのものを先ずは改めて見てみなきゃ。自分の心次第をですね、不毛の地でありゃせんかという事なんです。あなたの心の中に、それこそ鬼やろうか蛇やろうかという心が住んでいないかという事です。憎い可愛い、惜しい欲しいがひそんでいないかという事です。 為には本然として心が開ける教聴、御教えの頂き方が出来なければならない。又、実験実証さして頂かなければならない、ね。そういう心がいよいよ天地日月の心といったような信心によっていやが上にも豊かに大きく、いやが上にも深く広く肥えていくのですから、ね。そこにひとりでに物が出来るようなおかげであって、合楽でいわれる本当のおかげという事になるのじゃないでしょうか。
 頼んだからおかげ頂いた、お取次頂いてこうなったというおかげからもう一歩前進して、先ず自分自身の心を確かめて、憎い可愛いとかね、惜しい欲しいの心がない、有り難い心をめざさしてもらう。なら、そういう心になろうとして、なかなかなれんのだけれども、本然として心が開ける時に今迄出来なかった事が本然と、いや完全と出来るという事であります。これはもう確かにそうです。
 だから、いかにその、いわゆるあの心で、いうなら、教えを教聴しなければならないか頂かなければならないか、そして今迄はもう本当に、随分お話も頂いてきたけども、わかっているようで本然としたものでなかったものが本然とした時、心が開けた時であり、ま、いうならば悟りが開けた時、ね。
 そういう心が開ける時におかげの受けられない心というものが、いつの間にかそれを取ろうとか除こうじゃない、憎いとか惜しいとか欲しいとかといったようなものがですね、もうさらさらなくなってくるわけ、ね。
 そこに、なら限りないそれこそ、ひとりでに物が出来るようなおかげにもなってくるという事でございます。
        どうぞ。